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2011年06月04日

宮城県石巻の大震災支援にいきました

 宮城県石巻の大震災支援にいきました5月30日から6月3日まで留守にしました。
台風2号の被害を気がかりにして共産党県議団と
真栄里保さんの6人で石巻市のボランテイア支援をしました。

30日は仙台市に到着したのが4時ころで、被災から
80日間も不眠普及で頑張ってきた横田、遠藤両県議から
話を伺いました。

嘉陽団長が、被災の状況が戦後の沖縄の惨状と変わらない、
沖縄県民は、戦後の体験と大震災の痛みを重ね合わせている。
何かできることがあれば少しでも役に立ちたいとの思いを
伝えると、遠藤さんが涙をこぼし、ともにもらい泣きの交流をしました。

 31日は石巻と女川の地形のちがいによる津波被害の大きさのちがいを宮城県石巻の大震災支援にいきました
車で見て回り、午後から「生活品お届け隊」をしました。
まだ新しい家並だが、庭の泥、がれきの山の街かどで、地元の市議が
ハンドマイクでお米や野菜、トイレットペーパーなどお届けにきました。

と呼び掛けると、あちこちから老いも若いひとも男も女もでてきました。
避難所から壊れているが我が家に戻ったが、生活品が手に入らない宮城県石巻の大震災支援にいきました
なんでも足りない暮らしの不自由さに心が痛みました。

翌1日は,Kさんのお宅のがれきや泥のかき出し、壁はがしなどを、神戸の
土建の組合員さんと20人ほどでやりました。宮城県石巻の大震災支援にいきました

車で被災地を一回りして、1度見た場所ですが、1歩足を踏み入れて
家々の惨状を目にして涙があふれてきました。生活を営んできた家族の
思い出が詰まった家がグチャグチゃ、どこのものともわからない
あれこれが家を破壊していました。宮城県石巻の大震災支援にいきました

1階建ての家は逃げられず津波の被害となったのですが、海から600メートル
地点で、あたり1面がれきと化す津波の破壊力は恐怖です。

通り10件ほどの家で6人の方がなくなったこと,Kさんは車椅子生活
で年老いた母親と二人暮らしだが、3月11日は会社が休みで家に来ていた弟が
一緒で、2階に上がって、津波から難を逃れたといいます。1階が壊れて、2階
で水の出ない、ライフラインも全く復旧の見通しもない家での生活に、
気持ちがどれだけ耐えられるのか、私たちの作業を車椅子でじーっと
見続けていたKさんに1日も早く笑顔が戻ることを祈ります。宮城県石巻の大震災支援にいきました

それにしても、日本の国の政治はひどい。10万余の避難所暮らしの
困難さ、家を失い、肉親を失い、仕事を失って、今をどう暮らしていくのか、
苦しむ国民に明日を示すことができないでいるのに、自公民の政権抗争
は被災者の苦しみを知らない政治です。

被災者に寄り添って、声なき声を拾い上げて、苦難解決の道筋を示してこそ
希望が出てきます。

国民が主人公の憲法を持つ国として、政治にしっかりと生活者支援を
実行させるために、国民の苦難解決のために働く共産党の立党の精神にたって
もっと頑張らなくてはなりません。被災者救援に1度といわず
駆け付けたいものです。

ヘドロをスコップで土嚢に詰めたり、がれきを運んで捨てたり、1日中
重労働でしたが、不思議と筋肉痛もありませんでした。

昨夜帰って、整理のできないまま。いくつかの写真を掲載します。
沖縄の黒糖3000袋の贈呈式、女川は大きなビルが横倒しになっていたり、
数十メートルの高い所にある病院の1階まで津波に襲われています。
90歳の一人暮らしの女性に紙パンツをどうぞと声かける。

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Posted by すみえ at 18:32│Comments(0)災害
 
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